輝ける先輩達 第4回

日本コンピューター開発の先駆者

城 憲三氏 (中22回)

 城は、京都大学で数学を学び(注)、36才で阪大工学部教授となった。
工学部での数学の活用を熟考した城は、数学機器をテーマに取上げた。日本最初の計算機の講座が大阪大学に誕生(昭和16年)したのである。

(注)城の専攻は「複素関数論」であるが、若き数学者城の単葉関数の係数に関する研究は”城の定理“として当時の数学界を風靡した。

 敗戦後、城は発疹チフスで病床にあったとき、新着のNews Weekの記事、アメリカの最初の「電子計算機ENIAC」(それは人間が何百日ともかかる計算が数十秒で出来るものであった)を読んで衝撃をうけ、直ちに電子計算機の開発にとりかかった。
 しかし当時、海外からの文献は全く入手出来ず、城らは米軍の図書館に出向いて資料を手書きで写しとり、収集した文献は複写して関係者に配布した。城の集めた情報は、多くの開発者に多大の益をもたらしたと言われている。

長く苦しい開発の道のり

 城は昭和25年に真空管による10進4桁の加算式回路の試作に成功し、さらに真空管4000本を使った世にいう阪大式電子計算機の試作を開始、昭和34年には、加減乗除に成功した。
 しかし城の研究開発は、限られた研究費(注)、狭い実験室での極く少数のスタッフ(城と、学生の牧之内三郎、助手の安井裕の3名のみ)によるもので、数学者の城は電子の知識をもたず3名は猛勉強を続けながら部品集めからハンダづけまでを行うという文字通りの手づくり作業であり、しかも連日早朝から深夜までという苛酷なものであった。
(注)城は文部省に特別研究費を申請したが、”税金を使って研究するならもっと役に立つものを研究したら“と冷たくつきはなされた。

日本コンピューター開発の先駆者と認定される
 阪大式計算機は加減乗除に成功したが、ついに実用に耐える形でのシステムとして動かぬままに終り(真空管時代の終り)歴史的資料として阪大工学部資料館に永久保存となった。
 しかし日本コンピューターの歴史上、城の果たした役割はこれにとどまらない。城は計算機の啓蒙にもカを注いだ。城の本邦初の計算機の成書「数学機器総説」「計算機械」は当時のコンピューター学徒の聖書となっただけでなく、城研究室の卒業生は、続々と計算機メーカーに就職し、日米コンピューター開発戦争の主役となって奮闘することになる。昭和30年代には開発の主流がトランジスターシステムに移行していたが、日米格差は大きく”マンモス対蚊の戦い“と揶揄される有様で、日本支配をねらったIBMが阪大計算センターに自社の最新鋭機種の無償提供を申し出た。
 しかし城は研究者の多くがIBM導入を帝望する中で”国立大学は国産品で“と主張、国産品を導入した。(東大も)
 これを契機に日本コンピューター産業は活気を帯びる。
 城の没後10余年、日本のコンピューターはついにアメリカを抜いて世界一になった。そして平成14年、日本情報処理学会は城憲三を日本のコンピューター開発の先駆者に選んだ。


阪大計算機

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