輝ける先輩達 第5回

八尾高野球部に捧げた生涯

蔭山 昇氏 (中28回)

 蔭山昇は大正11年(1922年)八尾中学に入学、その器用さを見込まれて、1年生から俊足好打の捕手として活躍することとなった。
 蔭山の入部を機に、八尾中野球部はめきめきと頭角をあらわし、王座に君臨して来た市岡中学を脅かすまでになった。
 大正14年夏の大阪予選では市岡との決勝で、十中八九まで手にしていた優勝を不運な裁定のために失い、選手も応援席も一つになって大阪制覇の悲願を誓ったのであった。

雷雨の中悲憤の涙

 大正14年夏大阪予選はリーグ戦方式で甲子園出場を争った。決勝リーグを2勝0敗の八尾が1勝1敗の市岡と対戦。雷雨の中二転三転した試合も八尾が9回2点を取ってサヨナラ勝ちとなったが、試合終了後審判が雨のためノーゲームと宣告。蔭山主将は本部に対して猛抗議をしたが聴き入れられず、翌日の再試合、さらに優勝決定ともに敗退して涙を呑んだ。
 蔭山は翌15年春の選抜初出場を果たした後閑西大学に進み、関大野球部興隆の礎を築くことになるが、母校を甲子園にという夢は捨て切れず、八尾に出向いては母校の後進を指導し激励した。
 その甲斐あって、八尾中は昭和4年(1929年)から連続四年、選抜に出場という偉業を達成、そして昭和6、7年はついに宿敵市岡、新鋭浪商との三つ巴を制して夏の甲子園出場の悲願を果たした。

甲子園校旗掲揚第一号

 昭和4年春選抜大会には、試合経了と同時に勝利校の校旗を掲揚し、校歌を吹奏するということがはじめて登場した。そして入場式の後の第1試合で、新鋭八尾中が強豪松本商業を3−1で破り、校旗が掲揚され、「若江堤に草萌えて」の校歌が演奏されたのである。
その後今日まで春夏を通して行われている校旗掲揚の栄えある第一号となった。
 その後、日本は中国、そして太平洋へと戦争に突入し、八尾中野球部もその光を徐々に失って行き、蔭山も野球から遠退くことになる。
 蔭山が再び八尾中野球部の前に姿を見せたのは、戦火のあと立ち上った昭和21年夏の復活大会の準決勝戦であった。そしてこの日から四十年の長きにわたって八尾高野球部と蔭山の終生のつながりが始まったのである。
 蔭山は病にたおれるまで、いつも後輩に「俺の目の黒いうちに、八尾高をもう一度甲子園へ」と言い続けたが、昭和63年9月26目ついに帰らぬ人となった。その一生は大正、昭和と続く八尾高野球部の歴史であった。
 蔭山は常々、大正11年から五年間の選手時代、コーチ時代、そしてOB会長として、六十年にもわたって八尾高野球部に自分を駆り立てたものは、若い頃に並々ならぬ後援を賜った先輩や八尾の町の人々への感謝の気持からであると語っていたのである(中49回野球部伊勢田達也)


関大時代の蔭山氏(ユニホーム姿の人)

 

甲子園における戦績
大正15年 春 八尾中 1−8 高松商
昭和 4年 春 八尾中 3−1 松本商
  八尾中 6−5 海草中
  八尾中 0−1 神港商(11回)
昭和 5年 春 八尾中 3−5 台北中
昭和 6年 春 八尾中 1−0 愛知商
  八屠中 4−0 小倉中
  八尾中 2−1 甲陽中
(準決勝) 八尾中 8−10 広島商
昭和 6年 夏 八尾中 5−6 平安中
昭和 7年 春 八尾中 1−0 静岡中
(準々決勝) 八尾中 0−8 松山商
昭和 7年 夏 八尾中 2−0 京都師範
(準々決勝) 八尾中 0−3 明石中
昭和27年 春 八尾高 5−0 土佐高
  八尾高 5−0 下関商
  八尾高 5−2 長崎商
(準決勝) 八尾高 0−2 静岡商
昭和27年 夏 八尾高 6−0 盛岡商
  八尾高 4−0 松山商
(準決勝) 八尾高 1−0 長崎商
(決勝) 八尾高 1−4 芦屋高
昭和34年 夏 八尾高 1−0 滝川高
  八尾高 7−6 若狭高
  八尾高 3−2 天理高
(準決勝) 八尾高 1−5 西条高

 

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