輝ける先輩達 第8回

零戦隊長
 
宮野善治郎氏(中34回)

 零戦=制式名称・零式艦上戦闘機。
太平洋戦争における日本海軍の主力戦闘機として有名なこの零戦が、最もその真価を発揮したのは、南太平洋、ラバウル・ソロモン方面の航空戦であった。当時、流行歌にまで謳われた 「ラバウル海軍航空隊」。宮野善治郎は、その主力部隊である第二〇四海軍航空隊の飛行隊長として、世界戦史にその名を残している。
 搭乗員の戦死率八割というすさまじい航空消耗戦の続く日常の中でも、明るさと思いやりを忘れず、困難な任務は自分が率先して引き受ける、若き名指揮官として、上下の輿望を一身に集めていた。
 無謀な戦争への疑問を胸に抱きながらも、常に編隊の先頭に立って戦い続けた宮野大尉は、昭和十八年六月十六日、ガダルカナル島上空で空戦後、集合地点に戻らぬ部下を案じて単機、戦場に引き返し、そのまま行方不明となった。享年二十七歳。戦死後、その功により二階級特進、海軍中佐に任じられた。かつての部下で、六十年余を経た今もなお、宮野隊長を慕いつづける人は多い。
 宮野の三番機の搭乗員で、負傷のため宮野が戦死した日の出撃に居残りを命じられた大原亮治氏(横須賀市在住)は、
 「宮野大尉が還って来ないと知った時、何で無理してでも行かなかったのかと、自分が恥ずかしかった。あんなに苦しい思いをしたことはありません。隊長がやられるほどの激戦ですから、出撃していたら、まず八割方は、私もやられていたかと思います。しかし、それまでもそうであったように、隊長機を守り通せたかも知れない。最後の出撃について行かれなかったことが、今でも悔やまれます。当時私は二十二歳、それが今、八十六歳まで生きてるんですからね。あの時出ていたらどうだったかな、生きてたかな、死んでたかな、隊長を守ることができたら、その後、どんな人生を歩まれたのかな・・・・・・。
隊長が、今日は残れ、と言われたのは、お前は生きてろ、と将来の暗示を与えられたのかなと、六十年以上が経った今でも、毎日、隊長の遺影の前で自問自答を繰り返していますよ」
 と、胸中をふり返る。
 また、宮野の四番機を務めた中村佳雄氏 (八十四歳・北海道在住) は、
 「宮野大尉は、まず俺がやる、俺がやるからお前たちもやってくれ、それから、死ぬな、絶対に俺について来いよ、そういう姿勢の人でした。階級や出身に関係なく、誰とでも分けへだてなく全く同じように接してくれる、あの人のいいところはそこでしたね」
 と語る。
 筆者は、八尾高在学中、体育科の大木行徳先生から、ふとしたはずみに宮野の名前を聞かされ、戦後50年の雑誌記事取材を通じて、偶然の機会から、宮野の旧部下、上官、同期生の人たちと出会った。それから十二年。折に触れ取材を続け、またご遺族より提供を受けた当時の日記など膨大な資料をもとに、「零戦隊長〜二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯」 という長編伝記を書き上げ、光人社より上梓した。(資料館だより/出版情報参照
 幼くして父を亡くし、決して裕福ではないが誠実な家庭に育った宮野善治郎という一人の少年が、いかにして海軍を志し、戦闘機搭乗員への道を選んだか、そしていかに成長し、何を思い、いかに戦ったか。その航跡をたどることは、まさに大正昭和の日本の世相を追体験する得がたい体験でもあった。
 宮野少年が中学五年の夏、手帳に筆写した詩が今に残っている。
『人よ醒めよ 醒めて愛に帰れ 愛なき人生は暗黒なり 共に祈りつつ総ての人と親しめ 吾が住む里に 一人の争うものもなきまでに 人よ立てよ 起ちて汗に帰れ 汗なき社会は堕落なり 共に祈りつつ総ての人と働け 吾が住む里に 一人の怠るものもなきまでに』
 重藤校長自ら受け持つ、修身の授業で接した詩であろう。ただ勇敢に戦っただけでなく、こういう気持で常に部下と接していたからこそ、いつまでも人の心の中に生き続けているのに違いない。
 戦争の悲惨さは改めて言うまでもない。だがこの時代、持って生まれた人間的魅力と責任感、そして英国を手本とした日本海軍伝統の紳士的な一面と、八尾中伝統の野武士的な一面を兼ねそなえた宮野のような先輩がいたことを、母校、郷土の後輩として誇りに思う。(文中敬称略)

神立尚紀 (高34期・報道写真家) 記

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